クルレンツィスを体験した。
聴きに行った、というより「体験した」という表現の方がしっくりくる。
演奏の録画などを見てある程度は予習はしていたが衝撃的な体験だった。
今回は彼らにとって初来日。東京で3公演、大阪で1公演。
ボクは当然最終日の大阪を聴いたのだが、先行予約のチケットが抽選だった。きっと良い席はすべて抽選で割り振られたのだと思う。もちろん席の希望は出来ない。いつもは2階のバルコニーばかりだが、この日は1階の下手寄り前から14列目。
プログラムはチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲と「悲愴」で、どちらもCDで話題になった曲。しかもソリストも同じくパトリツィア・コパチンスカヤだからチケットが抽選というのも肯ける(笑)。
東京3公演後の感想は、音楽ファンのツィッターで伺い知る。毎回終演直後からタイムラインは「クルレンツィス」で埋め尽くされ、予想通り賛否両論で湧き上がっていた。

フェスティバルホール。
いよいよ開演を迎え、オーケストラの団員たちがステージに現れる。皆さんにこやかで、客席を興味深げに見渡している。知り合いでも見つけようものなら手でも振りそうな雰囲気だ(笑)。ステージ衣装は上下黒なのは統一されているが、男性は結構自由で、きっと「上は黒のジャケット、下は黒なら何でもOK」くらいのユルいルールなんだと思う。ジャケットの素材もまちまちでコール天の人も居たし、下は黒のスリムジーンズのような人も結構居た。白シャツに黒のスリムタイで辛うじて統一感を保っている感じ(笑)。
そして指揮者とソリスト登場。これもたいてい日本では下手(ステージ向かって左)から登場だが、上手から登場。クルレンツィスは黒のスキニーパンツにブーツ、上は黒のダボシャツ(民族衣装?)、コパチンスカヤもラフなパンツルックで赤いスリッパ。演奏時は裸足に。どれをとっても自由度が高い。これが彼らのスタイルなんだろう。
しかし、演奏が始まるや否や一瞬にして彼らの世界に引きずり込まれる。
コパチンスカヤのヴァイオリンは最弱音から最強音まで途轍もなくダイナミックレンジが広く、あの難曲を隅々まで「自分語」で語り尽くす。それは自由奔放で解放感に満ち満ちていた。自分に与えられたステージ上のスペースを目一杯動き回り、時には足を踏みならし、指揮者を見つめ、楽譜(譜面台を立てていた)に挑みかかるような仕草。まさに彼女のワンマンショー。まるでポップスターのライヴ!彼女をフォローするクルレンツィスもオーケストラも実に楽しそうで、絶妙で完璧な一体感が生まれている。うーん、これこそ生きた音楽の生みだされる現場。並のクラシック演奏会では中々味わえない生々しいライヴ感に客席は完全に圧倒された。
クルレンツィスはそんな出で立ちだし、事前のイメージでは相当のナルシストなのかと思っていたが、それはただのイメージに過ぎなかったようだ。きっとたっぷりと時間をかけてみっちりリハーサルを繰り返してきたはずなのに、本番での指揮は細部にわたるまで細かく、身振り手振りは形振り構わないようなアクション。それには悦に入ったようなナルシズムは微塵もなく、むしろ見ていてかっこ悪いほどだった(笑)。音楽作りに没入しているのだろうし、それに必死で応えようとしているオーケストラは一人の例外なく真剣で、クルレンツィスの創ろうとしている音楽、いや自分たちの目指そうとする音楽に一直線。
それをより痛感したのが後半の「悲愴」だった。
後半はチェロや金管楽器の一部以外は全員立って演奏。これも彼らのスタイルだ。立っているからなおさら、コパチンスカヤ程ではないにせよ、皆さん思い思いアクションが激しい(笑)。コンサートマスターや対面配置の第2ヴァイオリンのトップなどは動き回ってパート全体をまとめる大立ち回り。トランペットなどは出番になると立ち上がって吹くのだが、その様がまるでジャズのビックバンドを見てるようで新鮮だった(笑)。とにかく各楽器の醸す熱量がスゴい。最弱音から爆発まで表現の幅が広い。管楽器群はとにかく歌う歌う!クルレンツィスの音楽創りは実に緻密で細部に渡って計算され尽くされているようだ。それはオーケストラにも十分に浸透していて、スキなくそれを表現しようと妥協がない。チャイコフスキーがこの曲に求めたダイナミクス(ppppppからffffまで)を見事に対比させた。前半聴いたコパチンスカヤの音楽と同期するのは、目指す音楽が同じだからだろう。
「悲愴」は終曲部分、消えゆくように終わるが、何度聴いても拍手をするタイミングが難しい曲の一つだ。この日も、いきなり無神経なテロリストに「ブラボーっ!」とやられてしまうのか、、、と覚悟していたが、さにあらず。クルレンツィスが手を降ろさなかったこともあるが、驚くことに異例とも言える長い長い静寂が続いた。その時間、1分?2分? ようやくクルレンツィスが手を降ろしてもなお大喝采に襲われるには一呼吸あった。最後の沈黙までが曲の内とするなら、会場全体が彼らと一緒に音楽を創り上げたのだ。ステージと客席がバランス良く一体となる体験こそ稀だ。そのチカラが彼らにあった証だろう。
カーテンコールで、指揮者と一緒に毎回オーケストラ全員がお辞儀をする。指揮者の出入りに関係なく、ステージ上で何度も楽員同士が握手しハグしあう。・・・他では見たことない光景。
クルレンツィスと彼が作ったオーケストラ「ムジカエテルナ」だが、指揮者に支配されているのではない。クルレンツィスとオーケストラは互いのリスペクトの上に成り立っている。そして、楽曲へのリスペクトを共有するそのアプローチに誤魔化しはない。だから時間に制約を設けず、納得のいくまで濃密なリハーサルを重ねる。通常のオーケストラではそこまで出来ないのが現実だろう。
明らかにこの両者の存在は楽壇に一大旋風を巻き起こしている。モスクワから1400キロも離れた地方都市ペルミが彼らの本拠だ。「音楽で地方創生」と誰かが書いていたが、今後どう進化するのだろう?目が離せない存在だ。
一陣の風が日本を吹き抜けた。
それに立ち会うことが出来た。